漆 | 室瀬和美 :::: Urushi | Kazumi Murose, Japan

直前になってしまいますが、明日(10月11日)のNHK週刊こどもニュースで「伝統工芸」が取り上げられることになりました。そのコーナーで少し出番があります。
ぜひ、見てください。

ご報告

2008/9/24

昨日から第55回日本伝統工芸展東京展が日本橋三越にて始まりました。10月5日(日)まで開催中ですので、関東近隣にお住まいの方はぜひご来場下さい。その後は全国に順次、巡回いたします。

第五十五回 日本伝統工芸展

なお、今週日曜日(28日)のNHK新日曜美術館が伝統工芸展の特集となっており、私もゲスト出演いたしますので、こちらも併せてご覧頂ければ幸いです。

現代の匠(たくみ)—技と美 第55回日本伝統工芸展
(2008年9月28日放送)

さて、もう報道等でご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、二ヶ月程前に文化財審議委員会が開かれ、今年の重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)認定の答申があり、私は「蒔絵」の分野で認定されることとなりました。

その答申日は、日本橋三越において彫金の人間国宝である増田三男先生を囲んだ展覧会のレセプションが開かれた日と重なっていました。増田三男先生は今年で99歳を迎え(!)、奥様(100歳!!)とご一緒にレセプションに臨んでおられ、その益々元気なお姿に出席者からたくさんの祝福を受けられ、本当に素晴らしい会でした。私も夕方からその会場にいたため、答申結果のテレビでの発表は見ることができませんでした。しかし関係者の方から情報が入り、その場での発表となり、私も思いがけず出席者の方にお祝いいただけることとなりました。

私と増田先生は40歳以上の年齢差となります。蒔絵の人間国宝の分野でも、今年で92歳となる大場松魚先生がご健在であり、改めて、これまで以上に制作に打ち込まなくてはと、心を新たにしました。多くの仕事や制作発表の機会を頂くことは、作家にとっては真にありがたいことです。大先輩のように体の許す限り、これからも漆芸にかかわる活動を続けていきたいと思っています。

去る9月11日(木)、重要無形文化財保持者の認定式が無事執り行われました。不定期便のブログを読んで下さっている方々にご報告いたしますと共に、この場を借りて日頃のご厚情に感謝申し上げたいと思います。

鶴の羽根

2008/9/5

またご無沙汰してしまいました。現在10月の個展に向けて、制作に追われる日々です。

そんなある日、新潟から突然鶴の羽根が4本送られてきました。事前にお電話はいただいていたものの、やはりびっくり。中に入ったお手紙を読ませていただくと、学校に置いてあった剥製の鶴が古くなり、処分することとなったのだとか。拙著「漆の文化—受け継がれる日本の美(角川選書)を読んで下さり、「蒔絵に使用する粉筒は、昔は鶴の羽根の軸を加工して利用していた」という文章を覚えておられたそうで、捨ててしまうのであれば、ということで取りに行ったそうです。しかし、剥製はずっと放置されていたらしく、残念ながら虫が食ってほとんど使い物にならなかったとのこと。ようやく取れた丹頂鶴と真名鶴の羽根を各2本ずつ、計4本がお手紙と共に箱に入っていました。

大型の鳥は当然ながら一枚一枚の羽根も大きく、羽根軸も太く固くなっています。蒔絵用の粉筒は、その付け根部分の、固い部分のみを使うのですが、鶴の羽根は、ほとんど加工しなくても自然のままで「細く、薄く、固く、軽い」といった粉筒としての機能と形を兼ね備えています。

筒の先に使用する金粉の粒子に合わせた目の細かい絹布を張り、元の方から金粉を入れ、指で筒を持ってはじきながら振動を与え、必要な金粉の分量を必要な文様の位置に蒔いていくのです。

したがってその筒は、できるだけ薄く、固く、軽いことが必要で、鶴の羽根軸がそれにぴったりなのです。しかも鳥の羽根軸は、羽根先の方が元々斜めになっているので、金粉を入れるのに最適な形をしているのです。いつ頃から鶴の羽根軸を粉筒として利用してきたのかは定かではありませんが、自然を利用した先人の知恵でしょう。私は父が残してくれた鶴の羽根軸の粉筒を大切に使っています。

蒔絵の仕事をしてから、色々な鳥の羽根軸に目が向きます。例えば孔雀の羽根。これは細く薄すぎて、向いていません。またある時は、知人からペリカンの羽根軸を一本頂きました。ペリカンは鶴よりも大型なので、さすがに鶴よりも羽根軸が太く、充分使用できました。ただ、軸の厚みが鶴よりも薄く、丁寧に取り扱わないと割れる恐れがあります。こうやって色々と使い比べてみると、やはり鶴が一番、という結論に至りました。

しかし、鶴の羽根は今や入手不可能に近く、今回のような機会は特別です。現在蒔絵の技術者は、葦の軸を削って粉筒を作り使用しています。

本当にありがたい出来事でした。送っていただき、心より感謝いたします。

先日、日本工芸会東日本支部主催の講演会が行われ、熱海にあるMOA美術館の副館長である内田篤呉先生が「光琳デザイン」という演題でお話をして下さいました。

元禄時代を生きた尾形光琳は、生まれ育った京の呉服商で培われたデザイン感覚に加えて、多くの古典を学ぶことで、絵画・染織・漆工・陶芸と多岐にわたる制作にあたり、後世に多くの作品を残しました。

まずは話の導入に、MOA美術館に所蔵されている光琳の代表作「紅白梅図屏風」について触れ、一昨年行われた屏風についての科学分析結果について解説がありました。

以前NHKの放映でもありましたが、今回の科学調査のポイント—屏風の地は金箔に見えるが、金箔に見える部分を分析すると、金の反応が極端に弱く、金箔と金箔が重なった部分(箔足)は筆で描いた跡に見られるという内容を、拡大写真を写しながら説明していただきました。

また、中央の流水部分(いわゆる「光琳波」)についての話ですが、この技法については、美術史研究者の間で長く論争が続き、特に使用された材料については「銀をいぶして黒く変色させた」、あるいは「顔料(群青)を墨で黒く色づけした」等の説が出て、なかなか結論が出なかったそうです。ところが今回の分析調査では、銀(銀箔)や銅(群青)の鉱物は一切検出されなかったのです。恐らく、染料の藍を使用したのではないか、とのことです。

それにしても、表現技法も流水や梅花などは筆で描いたのではなく、型紙を使用して描いた可能性があるということを含め、屏風には多くの工芸技法を用いて描いているということを聞くと、やはり日本美術は、西洋美術の区分法のように絵画と工芸を分けるのではなく、同じ表現分野として考え、感じる必要があると改めて思います。

今回は内田先生の導入のお話しかここで書くことができませんでしたが、光琳の意匠デザインが後世に与えた影響は強く、あと数年後には没後300年を迎えようとする現代においても学ぶところは大であるな、というのが講演を聴いた感想です。

光琳はそれまで続いた家の財産をすべて無くしてしまいましたが、替わりに日本の美的財産を後世に残し続けています。私達現代に生きる人間に、生きる上での価値観とは何かを考えさせてくれる人物のひとりではないでしょうか。

シンポジウム

2008/6/11

今年は個展を予定しているので、慌ただしい毎日です。

さて、ご紹介するのが遅くなりましたが、今月末にシンポジウムがあり、講演をすることになりました。

第2回 漆のシンポジウム「伝統的な漆工技術と科学」
日時:2008年6月28日(土)13:00—17:30
場所:明治大学リバティータワー12階1123教室

特別講演 時代を超えた漆工品の諸相
北村昭斎氏(重要無形文化財保持者)

シンポジウム
1. 漆の文化〜受け継がれた日本の美〜
室瀬和美(漆芸家)
2. 漆の美しさを科学する
阿佐見徹氏(京都市産業技術研究所工業技術センター長)
3. 漆の劣化を科学する
神谷嘉美氏(明治大学)

入場は無料です。先着150名なので、事前に申し込み(氏名・所属・連絡先を書いて下記へFAX)が必要ですが、もしお時間がある方は、お越しください。漆と科学についてお話ししようと思っています。

申込先:明治大学理工学部応用化学科 教授 宮腰哲雄
FAX 044-934-7906

木曽路

2008/4/4

3月の木曽地方は、標高800m辺りでは春まだ浅く、雪間にフキノトウが出始めたところでした。このフキノトウの天ぷらがこの時期のごちそうです。これをひとつふたつ載せた朱漆塗りの椿皿が供せられる・・・。美しい春の彩りですね。添えられた塩をちょっとつけて食べる味は、ほんのり苦味を感じる「大人の味」といったところでしょうか。

閑話休題。木曽は材木の宝庫で、檜(ヒノキ)、椹(サワラ)、翌檜(アスナロ)、鼠子(ネズコ)、高野槙(コウヤマキ)は「木曽五木」として有名です。中でも檜は木材の王様といっても過言ではなく、法隆寺をはじめとして古代の建造物はほとんどが檜材で建てられ、現在まで朽ちることなく伝えられています。先日、その檜材を買いに出かけて来ました。

檜は「植えて千年、切って千年」と言われるように、樹齢は千年を優に超え、切って加工した後も千年以上朽ちることなく、長く生きる木材です。先程例にあげた法隆寺は、建築されてから1300年以上もの長い年月、風雨にさらされながらも、その姿を今に伝えています。もちろん木材ですので、環境によっての差はありますが。そして漆という樹液も、環境さえ整っていれば、千年どころか二千年以上保てる材料です。したがって、この長持ちする漆を塗る材として檜材を使用することは、最強の組み合わせと言えます。

檜は、昔から紀州檜と備州檜が有名です。紀州材は今の紀伊半島に育つ材で、備州材は木曽地方に育つ材です。紀州材は紀伊地方の高温多湿な夏、秋の台風、冬の寒さ等の気候の影響により木目は粗いのですが、粘り強く、建造物の柱材等に最も適した木材となります。一方の備州材は、長野の高地に育つため、夏冬共に寒冷地という条件下にあります。そのため育ちが遅いものの、夏目・冬目の木目の差が少なく、木目は細かく詰み、柔らかく素直、というのが特色で、調度・工芸品等の木地材に最も適しています。

それぞれの材は江戸時代には留山などとして守られ、特に備州檜は、今でも樹齢数百年という檜が残されています。それでも現在は樹齢五百年を越える材は少なくなったと言われています。最も有名なのは赤沢地域の檜で、国有林として極力伐採が控えられ、檜の森が守られています。その森を歩くと、木の生気にあふれており、日本一(?)の森林浴ができます。

私は定期的に木曽に出向き、素直で木目の詰んだ乾燥材を買い求めますが、檜材の間を歩くだけで、その香りに頭がスッキリとします。

今回購入したこの材に漆を塗り、蒔絵を施し、作品に仕上げていくのが楽しみです。

現在、高松市立美術館において、蒟醤で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている太田儔先生の作品展が開催されています。会場には太田先生の「木地蒟醤」と称する若い時代の作品から、現在に至る60点あまりが展示されています。

2月24日(日)には、東京国立近代美術館工芸課長の金子賢治氏による記念講演があり、私も行ってきました。

講演内容は、明治時代以降の「工芸」と呼ばれるジャンルを、1.「手作り」的産業形態、2.グラフィックデザイン等の工業的工芸、3.芸術品の分野にあたる作家表現としての工芸、と大きく3つの分野に分け、日本の作家活動としての「工芸」は1と2を否定することなく、その領域の延長上に存在しており、これはヨーロッパにおいて手工業の否定から機械工業へと変化した経緯とは全く異なる、ということから始まりました。さらに現代工芸作家の海外からの影響などに話しが広がり、昭和の工芸作家の作品へのアプローチ法の違いにも触れられていました。そして太田先生が、四国香川県の彫漆・蒟醤・存星を主体とした産業としての漆工芸の隆盛から衰退の原因を、手作り籃胎から機械轆轤への量産化と分析され、そこから最終的に籃胎による蒟醤の再現を芸術作品として完成させたと話されました。

この講義は太田先生の木工・竹工・漆工と多岐にわたる技術力と研究の志の高さを、改めて認識する機会となりました。

さて蒟醤技法とは、漆を塗り重ねた後、1.文様を「剣」と呼ばれる刃物で彫り込む、2.その中に彩漆を埋め込む、3.それを研ぎ付ける、この作業を異なった色を重ねながら何回も繰り返し、複雑な色調に仕上げていく技法です。元来、中国南方からミャンマーやタイなどに伝わり、さらに日本にも伝わりました。歴史的には、黒・朱・黄色等の色の組み合わせが一般的ですが、現在では色数も多く、発色も鮮やかです。

太田先生の技法は、「布目彫り」と称し、縦・横・斜めと細かく彫った線にそれぞれの彩漆を入れ、立体感を表現されています。さらに素地の籃胎は自ら研究を深め、寸分の狂いのない、精度の高いボディを制作されています。この竹を素材としながら、ゆるみのない正八角形に組み上げる技は、他の人には真似の出来ない高度の技なのです。

漆芸技法には多くの表現があり、日本に於いては、そのほとんどの技法が途絶えることなく現在に伝えられています。二千年に及ぶ歴史のある多様な漆芸技法を用い、芸術的な域に高め、それらを維持し続けているのは、世界広しといえども日本をおいて他にないのではないか、と改めて思いました。

卒業式

2008/3/4

3月3日、日本の漆芸技術の基礎を教える、石川県立輪島漆芸技術研修所で卒業式がありました。私の長男がそこを卒業するため、参列してきました。

彼は高校時代にフィンランドに留学していましたが、その一年間で触れたヨーロッパ文化と日本文化を比較し、日本人として、我が国の伝統工芸の分野に身を置きたいと考え始めたそうです。その後、大学でフィンランドの学校教育制度や価値観を研究し、教育の中に自国に伝わる文化を取り入れる必要性を感じたのかも知れません。そして日本に於ける伝統文化の代表ともいえる漆芸に興味を持ち始めたのもその頃だったのでしょう。一昨年大学を卒業すると共に、石川県輪島市にある漆芸技術研修所を受験し、入学しました。

石川県立輪島漆芸技術研修所は県立とはいえ、活動は文化庁の重要無形文化財技術養成事業であり、いわば日本の伝統技術の後継者育成事業を担っています。その研修所が、今年で開所40年を迎えました。卒業生の数は、現在640人を超えているそうです。1月には40周年記念事業として、40年間に育った若者達の卒業作品を一同に並べる展覧会を開催しました。

この研修所開設にあたっては石川県や輪島市がバックアップし、当初は私立研修所だったものが、昭和47年から石川県に移管され、現在に至るまで石川県が前面に立ち運営をしています。

開所当初は、県内出身者が多かったものと思われますが、現在では全国から希望者が集まり、日本の伝統漆芸技法のみならず、デザイン、絵画から茶道や書道に至るまで、幅広く若者達を教育しています。

講師陣も充実しており、全国から、いわゆる人間国宝の先生が出向いて直接手ほどきをされているのをはじめ、地元の各専門の漆芸作家の方々が何十人も指導に当たっています。この恵まれた環境は日本一なのではないでしょうか。

そしてこの研修所40年の歴史は、卒業生から小森邦衞先生のような人間国宝を生み出すに至りました。また現講師の多くも研修所の卒業生が名を連ねる等、後継者が着々と育っています。開所時の松田権六の言葉「技は人なり」という言葉が、40年経っても研修所の目指す価値観となって、語り続けられているのです。

これらのことは40年も前に、松田権六先生をはじめとする漆芸関係者による、後継者育成問題の先を見越した活動の結果の現れと考えます。

今年次々と卒業する若者達が、そのまま漆芸活動を継続するには厳しい社会状況ですが、本物の漆に接することができたということが、必ずや今後の人生に活かせるものと期待しています。

先日、岩手県知事と漆の文化についての鼎談をさせて頂きました。鼎談で触れたのは「漆文化」は日本の文化そのもので、それをどこの県より岩手県から発信し、日本の価値観に広げていきたいということでした。これから中尊寺の世界遺産登録や浄法寺の漆を含め、岩手県から「漆文化」を発信する時期にきたと感じました。

その鼎談の後、参加されたひとりの先生から「これから自治体の小中学校給食の器に漆器を使うべき」とのご意見を頂きました。

しかし、これについては費用も伴いますし、食器の洗浄システムその他、現状に合わせるには難しい問題が山ほどあります。ただ長野県の木曽地方では、平沢漆器を給食用食器に作って使わせている例もあり、二戸市や浄法寺町のような小さな自治体の規模なら可能かも知れません。従って「小中学校給食の器に漆器を使う」という提案は悪い話しではありませんが、行政がお金を出して支えるだけでは将来的に発展性がありません。やはり一般の人に漆器を購入して使用して頂く習慣(販路)を再度作り出す後押しを、今後していくべきであると考えます。

「みなさんが漆器に親しむ」ということから言えば—これはすでに私が個人的に実行していることでもありますが—子供さんが生まれたら、お祝いにお椀(+箸ならもっと良いですが)を送るという運動はどうでしょう。子供専用の小振りで丈夫なお椀をオリジナルに作るのです。

日本には「食い初め」といって、生まれて100日(120日)目に乳児に箸を持たせて、初めて食膳につかせる祝事があります。しかし、これは1回きりの祝い行事なので、皆さん椀と箸を揃えるのは形ばかりになってきています。一方「(おじいちゃんやおばあちゃんが)生まれてきたお孫さんのために子供用の漆椀を買ってお祝いしましょう。」という提案なら、その漆椀は「食い初め」に始まり、離乳食から小学校時代まで10年位は充分に使えることになります。

以前にも書きましたが、私は数年前から通常の椀より小さな「子供椀」を作っています。そして椀の糸底(裏)には子供さんの名前を漆で書いてあげます。つまり、その子だけのたったひとつの椀になり、これはとても喜ばれています。これは私流の「My椀」キャンペーンみたいなものです。

これからこのキャンペーン(?)をどのように発信し、定着させるかを考えなくてはなりませんが、この運動により、毎年生まれた子供の人数と同じ数の子供のお椀が消費され、その子達は大きくなるまで漆に触れて豊かな感性が育ち、さらには自分の椀は自分で洗うという習慣が身につくのです。そして次の段階として、大人の椀のサイズに買い換えていってもらう、という流れが生まれます。

「漆」は強く優れた素材ですが、その漆液を使った「漆器」が強いか弱いかは表から見えないのが、一般の方々に理解されにくい点です。「漆が良い=強い漆器」という単純な表現ではなく、漆がどこにどのように使われているかが、「強い漆器」であるための重要な点なのです。毎日使う椀には丈夫な木地と下地が必要で、下地が弱いと安価であるが壊れやすく、直しも出来ません。若干コストは高くついても強い漆を沢山使った下地が最適です。しかし、安いお椀が求められる結果、弱い下地の漆器を作ってしまうのです。

例えば岩手県産の浄法寺の漆は良質であり、下地からその漆を使った強い漆器を作れば「浄法寺は漆も漆器も良い」ということになります。しかしそれでは高くて売れませんという理由で、別の漆を使った下地の弱い漆器を作ったら「浄法寺の漆は良いが漆器はダメ」という結果になってしまいます。つまり最後の上塗りだけ日本産の漆を使っても強い漆器にはならないのです。輪島が漆器の町として全国を制したのは、間違いなく「安い漆器」ではなく「強い漆器」を目指した結果です。少し厳しい表現のようですが、これまで何回もあった日本から海外への進出チャンスも「安い漆器」で信用をなくした歴史的事実があるのです。

なぜ「漆が良い=強い漆器」ではないのか、なぜ「椀は木製で漆塗りなのか」など、基本的で重要な話しはまだ沢山あって、これからその話も順次していきますが、まずは、揺るぎない事実—漆は日本人になくてはならない「財産」であること、そしてそれをただ守っているだけでは何も発展しませんということを今日はお話ししたかったのです。
これからの21世紀は、この大切で優れた「漆」という素材をアピールして攻めていくべきであると考えます。それには漆掻きの方々や漆器製造技術者の生産側を「守る」だけではなく、消費するルートを作る「攻め」の部分を考えていくことが重要です。消費がひろがれば、結果的に生産が確保できます。

これまで中尊寺金色堂の修復事業をきっかけに、文化庁始め日本文化財漆協会など多くの方々の努力で無くなりそうな日本産漆の確保が続けられてきました。その漆の良さをさらにアピールして、みなさんに受け入れていただく時代に入っています。

2008/1/29

1月23日は東京では雪が降って寒いと思っていましたが、沖縄ではもう桜が咲いています!というとビックリするかも知れませんが、本当です。

桜と聞くと、ほとんどの人は「染井吉野」を思い浮かべますが、沖縄の桜は「緋寒桜」と言って、例年この時期に咲き始めます。沖縄本島中部には八重山という山があり、1月頃一度冷え込むと、それを合図に咲き始めるのだそうです。花は八重咲きでピンク色が強く、遠目にもとても派手に咲きそろいます。沖縄の人達はこの時期、週末になると八重山に花見に出かけるので、八重山周辺は大渋滞になってしまいます。この緋寒桜の面白いところは、染井吉野と違って散るときに花吹雪にならず、丸ごとボタボタ落ちてしまうことです。いつも頭に描く桜のイメージとは違っていますが、この時期に桜の花見ができるのは楽しいものです。

さて、今沖縄の首里城では正殿に飾られていた「三御飾」と呼ばれる調度品類の復元事業を行っています。皆様ご存じのように、沖縄の首里城は、太平洋戦争の沖縄戦によりすべて焼失してしまいました。残された資料が少ない中、平成4年に正殿を中心として、南殿・北殿という首里城の中核が復元されました。しかし内部やそこに飾られていた調度品は、より資料が少なく、15年経った現在も、少しずつ残された資料を基に復元事業が続けられています。その多くが漆器であるため、私も委員のひとりとしてそのお手伝いをしています。

かつて琉球には、多くの漆工技法が伝えられてきました。これまで調査を続けた結果、蒔絵といわれる技法を除いて、恐らくほとんどの技法が揃っているのではないかと思われます。これは中国や朝鮮半島、あるいは東南アジア諸国との経済的交流が盛んに行われてきた結果かと考えられます。その多くの技法の中でも朱漆塗に沈金による表現、黒漆塗に夜光貝による螺鈿技法が、首里王家の漆工品として多く残されています。

沈金や螺鈿で装飾された漆器類の形態・意匠の検証を続けてきた結果、現在少しずつ先が見えてきました。この事業は、当然首里城正殿内部に飾るのが主なる目的ですが、結果的にはこの事業を通し、現在沖縄に伝えられずに消えてしまった漆工技術を復元することになり、その技術者を育成することにも繋がるのです。

来年にはその第1号が出来上がるかも知れません。大変な事業ですが、その結果を楽しみに、沖縄に通っています。