漆 | 室瀬和美 :::: Urushi | Kazumi Murose, Japan

先日、ヨン様が盛岡で漆塗りを体験したという話がテレビで報じられていました。この報道の反響はいかほどのものなのでしょうか。少々気になりますね(笑)。というわけで、久しぶりにブログを書いた今日はこんなタイトルに。
さて、「漆塗りの体験」といえば、私は漆芸作品制作と共に、一般の方々に向けて漆芸教室を開いています。始めたきっかけは、新宿の産経学園での漆塗り教室でした。
もう30年以上も昔のことです。当時、鎌倉に伊志良不説先生という方が住んでおられました。先生は私の父の親友で、お付き合いは関東大震災にさかのぼると聞かされています。
父は輪島近郊の合鹿椀で名の知られる柳田村で生まれました。両親が早く他界したため、絵が好きだったこともあり、13歳で輪島の沈金師・蕨武洲の門弟となって修行することにしました。後に京都に出て、京都美術学校の教授で岩村光真という先生について蒔絵と螺鈿技法を学んでいましたが、ちょうどその時期に伊志良先生が関東大震災の被害にあって京都に疎開、父の隣家に住んでいたそうで、それが二人の出会いでした。
その後、伊志良先生は鎌倉に戻り、父は上京して当時東京美術学校の教授であった六角紫水先生の門下生となりました。二人の付き合いは戦後も続き、父が鎌倉・長谷にある伊志良先生のお宅へ通い漆塗りを教え、逆に伊志良先生から鎌倉彫の彫りを教わる、という交流が定期的に続きました。私が子供の頃、訳も分からないまま江ノ電に乗り、大仏の傍にある伊志良先生のお宅に連れられ、父達が鎌倉彫や漆塗りのやりとりをしている間、ひとりで大仏周辺で遊んでいた記憶があります。
さて、話がかなり遠回りしましたが、私が漆の道を志して大学の漆芸科に通うようになった頃、伊志良先生は産経学園で鎌倉彫の漆塗りを教えておられました。当時は漆を素人が塗るなど考えられない時代でしたから、恐らく日本で唯一の漆を教えるカルチャー教室だったと思います。ただ伊志良先生もご高齢で、鎌倉から新宿まで通うのが難しくなり、父に代わってもらえないかとの依頼がありました。父もその頃は60歳を過ぎ、外出もあまり好きではなかったものの、伊志良先生のお願いということで引き受けたのでした。しかし1年ほど教えた頃、転倒して骨折。急遽、私がピンチヒッターとして教室に出向くことになりました。その時私は24歳くらいだったかと思います。生徒は私の親ほどの世代の方ばかりでしたが、楽しく漆塗りに勤しむ姿を見て、「漆は一般の人でも充分楽しめる分野なんだ」と初めて感じました。それまでの私はというと、漆芸は専門家だけの特殊な分野と堅く考えていたので、目から鱗が落ちる思いがしました。
父は怪我が治った後も、年齢的に毎週出かけるのは辛いと言って、結局そのまま私が漆教室の先生を続けることになりました。気がつくとそれから30年以上の歳月が経ちました。当時は素人などに漆ができるわけがないとの批判も受けましたが、今となっては多くのカルチャー教室や個人の教室などで開講され、盛んになっています。その始まりが、私も引き受けていた教室だったということは、誰も知らないのではないかな、と思います。
現在では私が育てた人達が先生となって、次の世代の人達を指導しています。漆塗り、蒔絵、鎌倉彫から陶磁器の金継ぎまで、多様な技法を一般の方々が楽しみながら理解し、一時は忘れかけた漆の美しさを再び感じてもらえる場となっています。
興味のある方は、いつでも試してみてください。

秋も深まってきたようですが、日々制作に追われ、季節の移り変わりに鈍感になっています。

なぜか。

来週から個展がはじまるのです。つまり、仕事部屋に缶詰状態・・・。

今日はそのご案内をさせていただきます。

室瀬和美展
会場:西武池袋本店6階 西武アート・フォーラム
会期:10月29日(水)〜11月3日(月・祝)

三連休もありますので、ぜひお越しください。

ただ今、猛烈に追い込みをしておりますので、ヘトヘトなのですが、もう一踏ん張り、がんばります。

できるだけ多くに方に見ていただけると嬉しいです。

直前になってしまいますが、明日(10月11日)のNHK週刊こどもニュースで「伝統工芸」が取り上げられることになりました。そのコーナーで少し出番があります。
ぜひ、見てください。

ご報告

2008/9/24

昨日から第55回日本伝統工芸展東京展が日本橋三越にて始まりました。10月5日(日)まで開催中ですので、関東近隣にお住まいの方はぜひご来場下さい。その後は全国に順次、巡回いたします。

第五十五回 日本伝統工芸展

なお、今週日曜日(28日)のNHK新日曜美術館が伝統工芸展の特集となっており、私もゲスト出演いたしますので、こちらも併せてご覧頂ければ幸いです。

現代の匠(たくみ)—技と美 第55回日本伝統工芸展
(2008年9月28日放送)

さて、もう報道等でご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、二ヶ月程前に文化財審議委員会が開かれ、今年の重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)認定の答申があり、私は「蒔絵」の分野で認定されることとなりました。

その答申日は、日本橋三越において彫金の人間国宝である増田三男先生を囲んだ展覧会のレセプションが開かれた日と重なっていました。増田三男先生は今年で99歳を迎え(!)、奥様(100歳!!)とご一緒にレセプションに臨んでおられ、その益々元気なお姿に出席者からたくさんの祝福を受けられ、本当に素晴らしい会でした。私も夕方からその会場にいたため、答申結果のテレビでの発表は見ることができませんでした。しかし関係者の方から情報が入り、その場での発表となり、私も思いがけず出席者の方にお祝いいただけることとなりました。

私と増田先生は40歳以上の年齢差となります。蒔絵の人間国宝の分野でも、今年で92歳となる大場松魚先生がご健在であり、改めて、これまで以上に制作に打ち込まなくてはと、心を新たにしました。多くの仕事や制作発表の機会を頂くことは、作家にとっては真にありがたいことです。大先輩のように体の許す限り、これからも漆芸にかかわる活動を続けていきたいと思っています。

去る9月11日(木)、重要無形文化財保持者の認定式が無事執り行われました。不定期便のブログを読んで下さっている方々にご報告いたしますと共に、この場を借りて日頃のご厚情に感謝申し上げたいと思います。

鶴の羽根

2008/9/5

またご無沙汰してしまいました。現在10月の個展に向けて、制作に追われる日々です。

そんなある日、新潟から突然鶴の羽根が4本送られてきました。事前にお電話はいただいていたものの、やはりびっくり。中に入ったお手紙を読ませていただくと、学校に置いてあった剥製の鶴が古くなり、処分することとなったのだとか。拙著「漆の文化—受け継がれる日本の美(角川選書)を読んで下さり、「蒔絵に使用する粉筒は、昔は鶴の羽根の軸を加工して利用していた」という文章を覚えておられたそうで、捨ててしまうのであれば、ということで取りに行ったそうです。しかし、剥製はずっと放置されていたらしく、残念ながら虫が食ってほとんど使い物にならなかったとのこと。ようやく取れた丹頂鶴と真名鶴の羽根を各2本ずつ、計4本がお手紙と共に箱に入っていました。

大型の鳥は当然ながら一枚一枚の羽根も大きく、羽根軸も太く固くなっています。蒔絵用の粉筒は、その付け根部分の、固い部分のみを使うのですが、鶴の羽根は、ほとんど加工しなくても自然のままで「細く、薄く、固く、軽い」といった粉筒としての機能と形を兼ね備えています。

筒の先に使用する金粉の粒子に合わせた目の細かい絹布を張り、元の方から金粉を入れ、指で筒を持ってはじきながら振動を与え、必要な金粉の分量を必要な文様の位置に蒔いていくのです。

したがってその筒は、できるだけ薄く、固く、軽いことが必要で、鶴の羽根軸がそれにぴったりなのです。しかも鳥の羽根軸は、羽根先の方が元々斜めになっているので、金粉を入れるのに最適な形をしているのです。いつ頃から鶴の羽根軸を粉筒として利用してきたのかは定かではありませんが、自然を利用した先人の知恵でしょう。私は父が残してくれた鶴の羽根軸の粉筒を大切に使っています。

蒔絵の仕事をしてから、色々な鳥の羽根軸に目が向きます。例えば孔雀の羽根。これは細く薄すぎて、向いていません。またある時は、知人からペリカンの羽根軸を一本頂きました。ペリカンは鶴よりも大型なので、さすがに鶴よりも羽根軸が太く、充分使用できました。ただ、軸の厚みが鶴よりも薄く、丁寧に取り扱わないと割れる恐れがあります。こうやって色々と使い比べてみると、やはり鶴が一番、という結論に至りました。

しかし、鶴の羽根は今や入手不可能に近く、今回のような機会は特別です。現在蒔絵の技術者は、葦の軸を削って粉筒を作り使用しています。

本当にありがたい出来事でした。送っていただき、心より感謝いたします。

先日、日本工芸会東日本支部主催の講演会が行われ、熱海にあるMOA美術館の副館長である内田篤呉先生が「光琳デザイン」という演題でお話をして下さいました。

元禄時代を生きた尾形光琳は、生まれ育った京の呉服商で培われたデザイン感覚に加えて、多くの古典を学ぶことで、絵画・染織・漆工・陶芸と多岐にわたる制作にあたり、後世に多くの作品を残しました。

まずは話の導入に、MOA美術館に所蔵されている光琳の代表作「紅白梅図屏風」について触れ、一昨年行われた屏風についての科学分析結果について解説がありました。

以前NHKの放映でもありましたが、今回の科学調査のポイント—屏風の地は金箔に見えるが、金箔に見える部分を分析すると、金の反応が極端に弱く、金箔と金箔が重なった部分(箔足)は筆で描いた跡に見られるという内容を、拡大写真を写しながら説明していただきました。

また、中央の流水部分(いわゆる「光琳波」)についての話ですが、この技法については、美術史研究者の間で長く論争が続き、特に使用された材料については「銀をいぶして黒く変色させた」、あるいは「顔料(群青)を墨で黒く色づけした」等の説が出て、なかなか結論が出なかったそうです。ところが今回の分析調査では、銀(銀箔)や銅(群青)の鉱物は一切検出されなかったのです。恐らく、染料の藍を使用したのではないか、とのことです。

それにしても、表現技法も流水や梅花などは筆で描いたのではなく、型紙を使用して描いた可能性があるということを含め、屏風には多くの工芸技法を用いて描いているということを聞くと、やはり日本美術は、西洋美術の区分法のように絵画と工芸を分けるのではなく、同じ表現分野として考え、感じる必要があると改めて思います。

今回は内田先生の導入のお話しかここで書くことができませんでしたが、光琳の意匠デザインが後世に与えた影響は強く、あと数年後には没後300年を迎えようとする現代においても学ぶところは大であるな、というのが講演を聴いた感想です。

光琳はそれまで続いた家の財産をすべて無くしてしまいましたが、替わりに日本の美的財産を後世に残し続けています。私達現代に生きる人間に、生きる上での価値観とは何かを考えさせてくれる人物のひとりではないでしょうか。

シンポジウム

2008/6/11

今年は個展を予定しているので、慌ただしい毎日です。

さて、ご紹介するのが遅くなりましたが、今月末にシンポジウムがあり、講演をすることになりました。

第2回 漆のシンポジウム「伝統的な漆工技術と科学」
日時:2008年6月28日(土)13:00—17:30
場所:明治大学リバティータワー12階1123教室

特別講演 時代を超えた漆工品の諸相
北村昭斎氏(重要無形文化財保持者)

シンポジウム
1. 漆の文化〜受け継がれた日本の美〜
室瀬和美(漆芸家)
2. 漆の美しさを科学する
阿佐見徹氏(京都市産業技術研究所工業技術センター長)
3. 漆の劣化を科学する
神谷嘉美氏(明治大学)

入場は無料です。先着150名なので、事前に申し込み(氏名・所属・連絡先を書いて下記へFAX)が必要ですが、もしお時間がある方は、お越しください。漆と科学についてお話ししようと思っています。

申込先:明治大学理工学部応用化学科 教授 宮腰哲雄
FAX 044-934-7906

木曽路

2008/4/4

3月の木曽地方は、標高800m辺りでは春まだ浅く、雪間にフキノトウが出始めたところでした。このフキノトウの天ぷらがこの時期のごちそうです。これをひとつふたつ載せた朱漆塗りの椿皿が供せられる・・・。美しい春の彩りですね。添えられた塩をちょっとつけて食べる味は、ほんのり苦味を感じる「大人の味」といったところでしょうか。

閑話休題。木曽は材木の宝庫で、檜(ヒノキ)、椹(サワラ)、翌檜(アスナロ)、鼠子(ネズコ)、高野槙(コウヤマキ)は「木曽五木」として有名です。中でも檜は木材の王様といっても過言ではなく、法隆寺をはじめとして古代の建造物はほとんどが檜材で建てられ、現在まで朽ちることなく伝えられています。先日、その檜材を買いに出かけて来ました。

檜は「植えて千年、切って千年」と言われるように、樹齢は千年を優に超え、切って加工した後も千年以上朽ちることなく、長く生きる木材です。先程例にあげた法隆寺は、建築されてから1300年以上もの長い年月、風雨にさらされながらも、その姿を今に伝えています。もちろん木材ですので、環境によっての差はありますが。そして漆という樹液も、環境さえ整っていれば、千年どころか二千年以上保てる材料です。したがって、この長持ちする漆を塗る材として檜材を使用することは、最強の組み合わせと言えます。

檜は、昔から紀州檜と備州檜が有名です。紀州材は今の紀伊半島に育つ材で、備州材は木曽地方に育つ材です。紀州材は紀伊地方の高温多湿な夏、秋の台風、冬の寒さ等の気候の影響により木目は粗いのですが、粘り強く、建造物の柱材等に最も適した木材となります。一方の備州材は、長野の高地に育つため、夏冬共に寒冷地という条件下にあります。そのため育ちが遅いものの、夏目・冬目の木目の差が少なく、木目は細かく詰み、柔らかく素直、というのが特色で、調度・工芸品等の木地材に最も適しています。

それぞれの材は江戸時代には留山などとして守られ、特に備州檜は、今でも樹齢数百年という檜が残されています。それでも現在は樹齢五百年を越える材は少なくなったと言われています。最も有名なのは赤沢地域の檜で、国有林として極力伐採が控えられ、檜の森が守られています。その森を歩くと、木の生気にあふれており、日本一(?)の森林浴ができます。

私は定期的に木曽に出向き、素直で木目の詰んだ乾燥材を買い求めますが、檜材の間を歩くだけで、その香りに頭がスッキリとします。

今回購入したこの材に漆を塗り、蒔絵を施し、作品に仕上げていくのが楽しみです。

現在、高松市立美術館において、蒟醤で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている太田儔先生の作品展が開催されています。会場には太田先生の「木地蒟醤」と称する若い時代の作品から、現在に至る60点あまりが展示されています。

2月24日(日)には、東京国立近代美術館工芸課長の金子賢治氏による記念講演があり、私も行ってきました。

講演内容は、明治時代以降の「工芸」と呼ばれるジャンルを、1.「手作り」的産業形態、2.グラフィックデザイン等の工業的工芸、3.芸術品の分野にあたる作家表現としての工芸、と大きく3つの分野に分け、日本の作家活動としての「工芸」は1と2を否定することなく、その領域の延長上に存在しており、これはヨーロッパにおいて手工業の否定から機械工業へと変化した経緯とは全く異なる、ということから始まりました。さらに現代工芸作家の海外からの影響などに話しが広がり、昭和の工芸作家の作品へのアプローチ法の違いにも触れられていました。そして太田先生が、四国香川県の彫漆・蒟醤・存星を主体とした産業としての漆工芸の隆盛から衰退の原因を、手作り籃胎から機械轆轤への量産化と分析され、そこから最終的に籃胎による蒟醤の再現を芸術作品として完成させたと話されました。

この講義は太田先生の木工・竹工・漆工と多岐にわたる技術力と研究の志の高さを、改めて認識する機会となりました。

さて蒟醤技法とは、漆を塗り重ねた後、1.文様を「剣」と呼ばれる刃物で彫り込む、2.その中に彩漆を埋め込む、3.それを研ぎ付ける、この作業を異なった色を重ねながら何回も繰り返し、複雑な色調に仕上げていく技法です。元来、中国南方からミャンマーやタイなどに伝わり、さらに日本にも伝わりました。歴史的には、黒・朱・黄色等の色の組み合わせが一般的ですが、現在では色数も多く、発色も鮮やかです。

太田先生の技法は、「布目彫り」と称し、縦・横・斜めと細かく彫った線にそれぞれの彩漆を入れ、立体感を表現されています。さらに素地の籃胎は自ら研究を深め、寸分の狂いのない、精度の高いボディを制作されています。この竹を素材としながら、ゆるみのない正八角形に組み上げる技は、他の人には真似の出来ない高度の技なのです。

漆芸技法には多くの表現があり、日本に於いては、そのほとんどの技法が途絶えることなく現在に伝えられています。二千年に及ぶ歴史のある多様な漆芸技法を用い、芸術的な域に高め、それらを維持し続けているのは、世界広しといえども日本をおいて他にないのではないか、と改めて思いました。

卒業式

2008/3/4

3月3日、日本の漆芸技術の基礎を教える、石川県立輪島漆芸技術研修所で卒業式がありました。私の長男がそこを卒業するため、参列してきました。

彼は高校時代にフィンランドに留学していましたが、その一年間で触れたヨーロッパ文化と日本文化を比較し、日本人として、我が国の伝統工芸の分野に身を置きたいと考え始めたそうです。その後、大学でフィンランドの学校教育制度や価値観を研究し、教育の中に自国に伝わる文化を取り入れる必要性を感じたのかも知れません。そして日本に於ける伝統文化の代表ともいえる漆芸に興味を持ち始めたのもその頃だったのでしょう。一昨年大学を卒業すると共に、石川県輪島市にある漆芸技術研修所を受験し、入学しました。

石川県立輪島漆芸技術研修所は県立とはいえ、活動は文化庁の重要無形文化財技術養成事業であり、いわば日本の伝統技術の後継者育成事業を担っています。その研修所が、今年で開所40年を迎えました。卒業生の数は、現在640人を超えているそうです。1月には40周年記念事業として、40年間に育った若者達の卒業作品を一同に並べる展覧会を開催しました。

この研修所開設にあたっては石川県や輪島市がバックアップし、当初は私立研修所だったものが、昭和47年から石川県に移管され、現在に至るまで石川県が前面に立ち運営をしています。

開所当初は、県内出身者が多かったものと思われますが、現在では全国から希望者が集まり、日本の伝統漆芸技法のみならず、デザイン、絵画から茶道や書道に至るまで、幅広く若者達を教育しています。

講師陣も充実しており、全国から、いわゆる人間国宝の先生が出向いて直接手ほどきをされているのをはじめ、地元の各専門の漆芸作家の方々が何十人も指導に当たっています。この恵まれた環境は日本一なのではないでしょうか。

そしてこの研修所40年の歴史は、卒業生から小森邦衞先生のような人間国宝を生み出すに至りました。また現講師の多くも研修所の卒業生が名を連ねる等、後継者が着々と育っています。開所時の松田権六の言葉「技は人なり」という言葉が、40年経っても研修所の目指す価値観となって、語り続けられているのです。

これらのことは40年も前に、松田権六先生をはじめとする漆芸関係者による、後継者育成問題の先を見越した活動の結果の現れと考えます。

今年次々と卒業する若者達が、そのまま漆芸活動を継続するには厳しい社会状況ですが、本物の漆に接することができたということが、必ずや今後の人生に活かせるものと期待しています。