先日、岩手県知事と漆の文化についての鼎談をさせて頂きました。鼎談で触れたのは「漆文化」は日本の文化そのもので、それをどこの県より岩手県から発信し、日本の価値観に広げていきたいということでした。これから中尊寺の世界遺産登録や浄法寺の漆を含め、岩手県から「漆文化」を発信する時期にきたと感じました。
その鼎談の後、参加されたひとりの先生から「これから自治体の小中学校給食の器に漆器を使うべき」とのご意見を頂きました。
しかし、これについては費用も伴いますし、食器の洗浄システムその他、現状に合わせるには難しい問題が山ほどあります。ただ長野県の木曽地方では、平沢漆器を給食用食器に作って使わせている例もあり、二戸市や浄法寺町のような小さな自治体の規模なら可能かも知れません。従って「小中学校給食の器に漆器を使う」という提案は悪い話しではありませんが、行政がお金を出して支えるだけでは将来的に発展性がありません。やはり一般の人に漆器を購入して使用して頂く習慣(販路)を再度作り出す後押しを、今後していくべきであると考えます。
「みなさんが漆器に親しむ」ということから言えば—これはすでに私が個人的に実行していることでもありますが—子供さんが生まれたら、お祝いにお椀(+箸ならもっと良いですが)を送るという運動はどうでしょう。子供専用の小振りで丈夫なお椀をオリジナルに作るのです。
日本には「食い初め」といって、生まれて100日(120日)目に乳児に箸を持たせて、初めて食膳につかせる祝事があります。しかし、これは1回きりの祝い行事なので、皆さん椀と箸を揃えるのは形ばかりになってきています。一方「(おじいちゃんやおばあちゃんが)生まれてきたお孫さんのために子供用の漆椀を買ってお祝いしましょう。」という提案なら、その漆椀は「食い初め」に始まり、離乳食から小学校時代まで10年位は充分に使えることになります。
以前にも書きましたが、私は数年前から通常の椀より小さな「子供椀」を作っています。そして椀の糸底(裏)には子供さんの名前を漆で書いてあげます。つまり、その子だけのたったひとつの椀になり、これはとても喜ばれています。これは私流の「My椀」キャンペーンみたいなものです。
これからこのキャンペーン(?)をどのように発信し、定着させるかを考えなくてはなりませんが、この運動により、毎年生まれた子供の人数と同じ数の子供のお椀が消費され、その子達は大きくなるまで漆に触れて豊かな感性が育ち、さらには自分の椀は自分で洗うという習慣が身につくのです。そして次の段階として、大人の椀のサイズに買い換えていってもらう、という流れが生まれます。

「漆」は強く優れた素材ですが、その漆液を使った「漆器」が強いか弱いかは表から見えないのが、一般の方々に理解されにくい点です。「漆が良い=強い漆器」という単純な表現ではなく、漆がどこにどのように使われているかが、「強い漆器」であるための重要な点なのです。毎日使う椀には丈夫な木地と下地が必要で、下地が弱いと安価であるが壊れやすく、直しも出来ません。若干コストは高くついても強い漆を沢山使った下地が最適です。しかし、安いお椀が求められる結果、弱い下地の漆器を作ってしまうのです。
例えば岩手県産の浄法寺の漆は良質であり、下地からその漆を使った強い漆器を作れば「浄法寺は漆も漆器も良い」ということになります。しかしそれでは高くて売れませんという理由で、別の漆を使った下地の弱い漆器を作ったら「浄法寺の漆は良いが漆器はダメ」という結果になってしまいます。つまり最後の上塗りだけ日本産の漆を使っても強い漆器にはならないのです。輪島が漆器の町として全国を制したのは、間違いなく「安い漆器」ではなく「強い漆器」を目指した結果です。少し厳しい表現のようですが、これまで何回もあった日本から海外への進出チャンスも「安い漆器」で信用をなくした歴史的事実があるのです。
なぜ「漆が良い=強い漆器」ではないのか、なぜ「椀は木製で漆塗りなのか」など、基本的で重要な話しはまだ沢山あって、これからその話も順次していきますが、まずは、揺るぎない事実—漆は日本人になくてはならない「財産」であること、そしてそれをただ守っているだけでは何も発展しませんということを今日はお話ししたかったのです。
これからの21世紀は、この大切で優れた「漆」という素材をアピールして攻めていくべきであると考えます。それには漆掻きの方々や漆器製造技術者の生産側を「守る」だけではなく、消費するルートを作る「攻め」の部分を考えていくことが重要です。消費がひろがれば、結果的に生産が確保できます。
これまで中尊寺金色堂の修復事業をきっかけに、文化庁始め日本文化財漆協会など多くの方々の努力で無くなりそうな日本産漆の確保が続けられてきました。その漆の良さをさらにアピールして、みなさんに受け入れていただく時代に入っています。
1月23日は東京では雪が降って寒いと思っていましたが、沖縄ではもう桜が咲いています!というとビックリするかも知れませんが、本当です。
桜と聞くと、ほとんどの人は「染井吉野」を思い浮かべますが、沖縄の桜は「緋寒桜」と言って、例年この時期に咲き始めます。沖縄本島中部には八重山という山があり、1月頃一度冷え込むと、それを合図に咲き始めるのだそうです。花は八重咲きでピンク色が強く、遠目にもとても派手に咲きそろいます。沖縄の人達はこの時期、週末になると八重山に花見に出かけるので、八重山周辺は大渋滞になってしまいます。この緋寒桜の面白いところは、染井吉野と違って散るときに花吹雪にならず、丸ごとボタボタ落ちてしまうことです。いつも頭に描く桜のイメージとは違っていますが、この時期に桜の花見ができるのは楽しいものです。
さて、今沖縄の首里城では正殿に飾られていた「三御飾」と呼ばれる調度品類の復元事業を行っています。皆様ご存じのように、沖縄の首里城は、太平洋戦争の沖縄戦によりすべて焼失してしまいました。残された資料が少ない中、平成4年に正殿を中心として、南殿・北殿という首里城の中核が復元されました。しかし内部やそこに飾られていた調度品は、より資料が少なく、15年経った現在も、少しずつ残された資料を基に復元事業が続けられています。その多くが漆器であるため、私も委員のひとりとしてそのお手伝いをしています。
かつて琉球には、多くの漆工技法が伝えられてきました。これまで調査を続けた結果、蒔絵といわれる技法を除いて、恐らくほとんどの技法が揃っているのではないかと思われます。これは中国や朝鮮半島、あるいは東南アジア諸国との経済的交流が盛んに行われてきた結果かと考えられます。その多くの技法の中でも朱漆塗に沈金による表現、黒漆塗に夜光貝による螺鈿技法が、首里王家の漆工品として多く残されています。
沈金や螺鈿で装飾された漆器類の形態・意匠の検証を続けてきた結果、現在少しずつ先が見えてきました。この事業は、当然首里城正殿内部に飾るのが主なる目的ですが、結果的にはこの事業を通し、現在沖縄に伝えられずに消えてしまった漆工技術を復元することになり、その技術者を育成することにも繋がるのです。
来年にはその第1号が出来上がるかも知れません。大変な事業ですが、その結果を楽しみに、沖縄に通っています。
あけましておめでとうございます。
昨年は慌ただしくしており、文章を書くよりは制作が先、などと思って、ブログはしばらく休んでいました。しかし、書く時間がないとボヤいてばかりいないで、両方やろうと一念発起。相変わらずの不定期便ですが、再々開しようと思います。いつまで経っても更新されないこのコーナーに、懲りずに覗きに来てくださる皆様、大変お待たせいたしました。
早速ですが、明日から第25回日本伝統漆芸展が池袋西武本店6Fアートフォーラムにて開催されます。会期は1月16日(水)〜21日(日)と短い期間ですが、お出かけいただければ幸いです。
日本伝統漆芸展とは、日本工芸会中の漆芸部門だけの全国規模の公募展で、今年で四半世紀を迎えました。
記念すべき第1回展は昭和59年に行われましたが、当初は公募展ではなく、正会員展でした。その出品作品の中で印象深かったのは、磯井正美先生の壁掛時計です。黒漆塗りの四角いボディに螺鈿で円が描かれた文字盤は、一見何の変哲もない時計なのですが、よく見ると、その丸い円は12時、3時、6時、9時の部分の線が少し外にズレています。これは相撲の土俵をデザインしたもので、しかも磯井先生の得意とする蒟醤の技法ではなく、螺鈿技法で表現した作品でした。それまでの「伝統工芸」の「お堅い」展覧会イメージに対し、まだ磯井先生が人間国宝の指定を受ける前の時代の、肩の力が抜けた微笑ましい作品でした。
ちなみに私は、第1回展から参加していますが、私の父も健在でしたので、親子で初回から出品できたことは思い出深いことのひとつです。今年25回展を迎えるまでの間、松田権六先生を始め、多くの先人が他界されました。しかしその一方で、今は当時生まれていなかった世代が展覧会に参画しており、世代がいつの間にか入れ替わり、新しい感性で作品が制作されています。
変わらないのではなく、少しずつ新しく変化して行くのが、日本の伝統工芸なのです。
少々間が空いてしまいましたが、ブータンの話を続けます。肝心の漆のことを話さずにいましたから。
前回もお話ししましたが、ブータンの国土の大半は森林で、今でも国策で森林保護が優先されています。これは隣国のネパールが、急激に森林伐採を行った結果、国土が荒廃したことを見ての判断かと思います。そのブータンでの木材の有効利用は、多岐にわたっています。近年の建築物は鉄筋モルタルに移行していますが、内装には木材がフルに使用されており、室内装飾などにはあらゆるところに木彫彩色が施され、色鮮やかです。
さらに工芸品にも木工製品が多く、轆轤挽きで作られた小椀、合子等、長く伝承されてきた形が今なお製作され続けています。特に楓で挽いた小さな椀には漆が摺り込まれ、その美しい木目と艶が好まれています。
ただし、漆樹が育つのは東ブータン地域であるため、それらの木工品が作られるのも必然的にタシマンツェと呼ばれる東部地域に限られてきます。同じ漆といってもブータン漆は葉からにじみ出す液から採取するため、大量に一度に確保できません。そこで枝を切り、葉を取ったその場で木地に摺り込まなくてはいけない事情があるので、木工製品はその地域でしか作られないという結果になるわけです。しかも、漆は親指で直接摺り込んで仕上げています。椀は内外共に摺漆で仕上げられる場合も多いのですが、内側のみ黒漆で仕上げてある椀もあります。恐らく掃炭を混ぜて黒くしていると思われますが、これもやはり指で塗り込むため、刷毛目ならぬ「指目」が強く残る上塗りとなっています。
輪島の漆芸家であった故角偉三郎氏は、このブータン漆器と出会い、日本に帰国後刷毛を捨て、自らの指で塗った椀を作り発表したことは有名な話のひとつです。
ブータンの漆器は、ブータンの自然と生活そして歴史が生み出した傑作であり、独自の力強い形態は、時代・地域を越えて私達に訴えかけてきます。残念ながら漆液の量が確保できないことから、現在では希少な産物になりつつあるのも事実で、木目の美しい椀等は、とてもブータンの人々には買えない値段になってしまっています。さらにもっと残念だったのは、おなじ形をした椀で漆を塗らずに化学塗料を塗った椀が数多く並んで売られていたことです。一般の方は漆椀であると言われれば信じて購入してしまうでしょうが、私は漆が専門ですので、一目でその違いがわかります。このような仕上げをブータンの職人が行うはずはなく、他国からの「悪しき知恵」の結果に落ち込んだ次第です。中にはその違いがわからずに同じ金額で置いてある店もありましたが、私は「本物の漆」が塗られた数少ない椀を購入してきました。
本当はブータン東部のタシマンツェに足を運んでみたかったのですが、道路事情と日程とが合わずに残念でした。しかし紙漉や漆工芸など日本文化との共通項を感じることのできた、楽しい旅となりました。
ティンプーはブータンの首都だけあって、国の行政機関が集まっています。その建物は「ゾン」と呼ばれるかつての城です。ただ最大の町でありながら、信号機がひとつもありません。唯一中心街の交差点には、警察官が手旗信号で交通整理をしている姿が見られました。
ブータンは国土の90%以上が森林という自然に囲まれた国のため、昔から竹工・木工・紙漉・織物などが盛んです。特に民族衣装は日本の着物に似た「ゴ」と呼ばれる男性衣装、「キラ」と呼ばれる女性の衣装が美しく、政府が着用を奨励しているため、多くの人達がこの衣装を身につけて生活しています。ブータンの人々は着道楽と呼ばれているそうです。色鮮やかな衣装は、強い陽の光に映えて、目に飛び込んできます。衣装の形が決まっている反面、その柄の種類は多く、衣類を売る店の棚はさながら布の見本帳ようです。

織物同様に盛んに作られているのが竹工芸品で、どの町にも売られており、やはりどの家庭にも置かれて使われています。子供達などのお弁当も竹編みで、そのランチボックスを手に何Kmも遠くにある学校へ徒歩で通っています。私が見た中には17〜18世紀のもので、ワインを入れて運ぶ細長い樽のまわりに竹編みの装飾を巻いて漆が塗ってあるものがありましたが、素材を生かした実にすばらしい工芸品でした。工芸品以外でも、竹を編み込んで作った板を塀にした囲いは、日本の竹垣とは異なるものの、竹の利用価値を広げています。極端な例では、周辺国でもよく使われているように、鉄筋モルタルと打ち込む枠を支える柱にも竹を使っているほどで、精度が高いとは考えにくいのですが、あらゆる場所に使われているという意味では、驚くばかりです。
よく観光地に行くと見かける「××に行ってきました」というお土産ではありませんが、「ブータンに行ってきました」。今回から数回に分けて、土産話にブータン旅行記を綴ろうと思います。
ブータンという国はインドと中国に挟まれた、ヒマラヤ山脈の麓に位置する小さな王国です。日本からは直行便はなく、私はバンコク・コルカタ経由でブータンに入りました。なぜブータンに行ったかというと、漆樹が育っている地域の中では最も西に位置する国だからです。
いつも書いていますが、漆樹は日本から朝鮮半島・中国へと広がる東アジア、さらにベトナム・タイ・ミャンマーなどの東南アジア地域にかけての、いわゆるモンスーン気候帯に植生する樹木です。ブータンの一部も同じ気候帯に属しているのですが、ヒマラヤ山脈に近い地域に漆というのは地図で見ているだけでは考えにくいのです。これまで大学の先輩である新海氏よりブータンのことはよく聞かされていましたし、輪島の故・角偉三郎氏や島口氏の短いブータン事情のエッセーも読ませていただきましたが、百聞は一見にしかず、日本から4000km程離れた遠い国・ブータンを訪れることとしました。
かねてから一度尋ねたいと思っていましたが、最近まで鎖国状態になっていた程で、なかなか旅行しにくい国でした。今でも個人での入国は手続きや滞在方法等、難しいことが多いのが現状です。
ブータンで唯一国際便が到着できるのは、標高2200mのパロという町にある空港です。首都はティンプーで、5万人が住む最も大きな町です。パロからティンプーにバスで移動するには、山道を2時間以上走らなければなりません。来年に新国王の戴冠式を控えて、今年中に道路拡張工事を完成させるために大半の道路が工事中で、道は狭く、大小の岩石が転がり、大型ダンプなどとすれ違う時には、谷底に落ちるのではないかという思いでバスに揺られ続けることしばし。我々はなんと4時間近くかかって、ようやくティンプーに到着しました。(つづく)
この度、(財)日本文化藝術財団から日本文化藝術振興賞を授与されることになり、先日その授賞式が明治記念館で行われました。財団は平成5年から活動が始まり、日本文化藝術振興賞と日本現代藝術振興賞の2部門から成り、それぞれの賞には若手芸術家に対しての奨励賞も設けられている、現代と伝統の両分野の作家に与えられる賞です。財団の現会長は元NHK会長の川口幹夫氏であり、美術・音楽のジャンルを超えて審査、選ばれているとのことで、今年は14回目に当たるそうです。授賞対象者がいない年もあり、審査は厳正に行われているとのこと。その中で選出していただいたのは大変光栄なことです。(詳しくは(財)日本文化藝術財団のHPがありますのでご覧下さい。)
さて、今年の受賞者は日本文化藝術振興賞が私、日本現代藝術振興賞が陶芸家の杉浦公益氏、日本文化藝術奨励賞が大鼓の亀井広忠氏、日本現代芸術奨励賞が作曲家の武智由香氏でした。私達は授賞式会場で初めて顔を合わせましたが、その時に多岐にわたる分野から選ばれたことを実感しました。しかし顔合わせの部屋でお話ししていると、それぞれ美術・音楽と分野は異なりますが、共に東京藝術大学の先輩後輩で会話が弾みました。
その話の中で、亀井さんが自ら演奏のために持ってきた大鼓の胴を見せてくれました。それを見ると竹に虎の蒔絵が大胆に配されている、見事な桃山時代の蒔絵鼓胴だったのです。
我々専門家が桃山時代の作品と判断するとき、形・素材・蒔絵意匠・蒔絵技法・蒔絵材料・漆の年齢など、分析するポイントが沢山あり、その総合評価で時代が決まってきます。恐らく亀井氏はそのうちの何ポイントかを経験で理解しており、最終的に“感覚”で判断されていると思いますが、その経験から育った感覚が一番重要であると考えます。一般的には単純に意匠のみで決めてしまう方が多いかと思いますが、それには落とし穴があって、もっと時代が下がったものを桃山と判断してしまうことになります。ものの本質を見抜く高い感度は、分野も時代も超えて伝わるのだなと思ったできごとでした。
授賞式後、その鼓胴を使用しての亀井氏と観世栄夫氏との見事な競演は、列席の人々の心を打ちました。まさに新旧の世代、音楽と美術のジャンルに壁のない日本の芸術の高さを味わったひとときでした。
昨年の5月から週刊朝日百科の「人間国宝」シリーズが出版されています。今年の9月までの間に全70冊が刊行される予定だそうです。ご存じかとは思いますが、この「人間国宝」というのは通称で、正式には「重要無形文化財保持者」といいます。これは無形文化財の中で特に重要な「わざ」を「重要無形文化財」に指定し、それを体得、体現している人を保持者として認定する制度です。
先日、そのシリーズの43冊目、きゅう漆の号が発売されました。(“きゅう”の字は「かみがしら(髟)」に「休」と書きます。表示できないのでひらがなで書きます。)これまで刊行された漆芸関係の本は、漆芸1蒔絵「高野松山・松田権六」、漆芸2「大場松魚・寺井直次」、漆芸3彫漆・蒟醤「音丸耕堂・磯井如真・磯井正美・太田儔」で、今回は4冊目、きゅう漆「赤地友哉・増村益城・大西勲」です。
これまで発刊された漆芸分野の3冊は、蒔絵・彫漆・蒟醤といった漆塗りが施された上に文様を表現する加飾技術の分野でしたが、今回は漆塗りの技術で認定された3名です。この漆塗り技術の下地から仕上げまでの作業を総称して「きゅう漆」と呼んでいます。「きゅう」とは中国では「刷毛で塗る」という意味で使われていましたが、後に漆塗技法全体を表すようになりました。
きゅう漆で初めて認定されたのが赤地友哉。曲輪の素地に塗り立て仕上げの造形が特色です。そして乾漆の素地に呂色磨き仕上げを得意とした増村益城。二人は同じきゅう漆分野でありながら、対照的な技法を用いた作家でした。
きゅう漆は加飾表現がないだけに造形そのものが命であり、この二人の作家の出現は、日本のきゅう漆分野に「かたち」の重要性を認識させたのでした。
二人は明治時代に生まれ、昭和の始めから戦中、戦後と、漆液すら満足に入手できない時代にあって自己を磨き、漆の美しさを表現し続けてこられました。その漆に対する愛情と作品制作への情熱が、今回の本からも伝わってきます。
漆の仕上がりの肌や色が大切な分野でありながら、戦中から戦後しばらくは、大切な日本産の漆が思うように手に入らず、特に戦後は中国からの輸入漆さえもなくなった時期がありました。そんな厳しい時代を乗り越え、現代の私達に伝えてくれた漆に対する価値観と技術の大切さを改めて感じています。
本文中に私も執筆していますが、戦後、日本産の漆が枯渇しそうな時期に国の補助を僅かながらでもいただきながら、漆樹の植栽・保育・採取の活動を行う日本文化財漆協会を設立したのが松田権六と増村益城です。赤地友哉も後に会長を務めています。
今日、日本伝統漆芸展の創作や漆工文化財保存活動には欠くことができない日本産の漆が、戦後半世紀を経てようやく確保されることとなり、その漆液の強さ、美しさを伝えることが可能となったのも、厳しい時代を耐え抜いた先人達のおかげと感謝しています。
東京の多摩丘陵で縄文漆器が出土しており、それを見ることが出来るということをご存じでしたか?
実は東村山市で7年程前から都営住宅建設に伴う発掘調査が行われ、沢山の土器・漆器をはじめ、大きな舟までが出土しています。名前は下宅部(しもやかべ)遺跡といって、「トトロの森」の近くに位置します。現在は調査も終了し、埋め戻されて都営住宅が建てられていますが、ごく一部が遺跡公園として現在も残されています。
この地域では、縄文後期から平安・鎌倉時代に至る地層で沢山の遺物が出土していますが、中でも漆器に関わる資料が多く、大変勉強になります。
まず驚いたのは、建造物の土台と思われる杭が何本も発見されていますが、そこに漆の木が使用されていることです。漆は腐らないと言われていますが、漆の幹もやはり腐りにくいのを当時の人々は知っていたのでしょう。さらにその漆の樹には、漆掻きを行った傷とそこからにじみ出して固まった漆液がそのまま残り、見ることができるのです。その傷は太い幹から細い枝まで多種ありますが、どれも15〜18?間隔で水平に一本ずつ樹をひとまわりするように傷が入れられていました。傷はおそらく鋭利な石器で入れられたと考えられます。漆掻き傷を水平に入れる採取方法は、現在も日本だけで、中国や東南アジアはV字に傷を入れています。
日本以外の地域で、3500年も前の漆掻き傷のある漆樹が発見された例がないので、当時の比較はできませんが、少なくとも日本では3500年もの間、漆は変わらない方法で掻き取られていたことになります。
漆の傷の本数が現在より少ないということは、一本の漆樹から採取できる漆液の量が少ないわけで、きっと現状よりはるかに豊富な漆樹が植栽されていた情景を思い浮かべます。他にもその漆液を採取したまま荒味という状態で保存した土器や、それらを精製して漉した状態で保存した土器が確認されるなど、当時の漆液の扱い方や性質を熟知した縄文人の生活を垣間見た気がしました。
また弁柄や水銀朱の顔料を細かく潰すために使った堅い石も発見され、充分にすり潰してから漆と練って、赤色漆を作ったことがわかります。
興味があるのは、その漆を塗る道具なのですが、未だに刷毛も筆も発見されていません。しかし、よくルーペを使って見ると、塗られた朱漆にはわずかに刷毛のかすれが見られます。したがって、何らかの動物の毛を使った刷毛を使用したことがわかりました。さらに細かく肉持ちの良い線で描いた生漆の文様を観察すると、その線を描くためには細く、腰の強い筆がなくては描けないという事実も判明します。この肉持ちが良い漆は、なやし、くろめをしっかりしなければ得ることはできません。
このように見ていくと、縄文人の漆に対する知識・技術は現在と何一つ変わっていないことに改めて気づかされるのです。これまで遠い昔のことと思っていた縄文時代の文化が、漆を通して身近になってくる気がしました。
高田馬場駅から急行に乗ればわずか30分程度の距離にある、東村山駅です。是非一度、お出かけいただきたいと思います。
3月10日から「松田権六の世界」展の巡回展がMOA美術館で開催されています。美術館周辺は梅も咲き、もう春真っ盛りです。今回の展示会場の空間は、石川県立美術館・東京国立近代美術館工芸館とはひと味ちがい、ゆったりと鑑賞できるのが魅力です。また、松田権六の代表作のひとつ「蓬莱の棚」が中央のケースに入り、360°ぐるりと見ることができるのもMOA美術館ならではでしょう。その他、椀類も以前よりも広く展示されているので、ゆっくりと見ることができます。
ところで展示中の「蓬莱の棚」で新しい発見をしました。それは画面一杯に並んだ鶴の足です。足は高上げした上に肌色に合わせた色漆を塗り、すぐに「引っ掻き」によって表現をしています。ここまでは写真で見てもよく分かるのですが、今回改めて見ると、その足に塗られた色漆は、卵白を混ぜ固く練った絞漆だったのです。絞漆をタンポで塗ってすぐに叩いたり、ねじったりして地文を作り、さらに引っ掻きを行った結果、鶴の足の質感がよりリアルな表現になっていたのでした。
もう一点。動物蒔絵膳(熊)をみると、はじめ熊の部分は真黒に見えたのですが、熊はおそらく砂糖炭の乾漆粉による黒蒔絵として手足や顔の部分に蒔絵で線描を研ぎ出していました。そしてかなり厚く研ぎ付けられた熊の文様の間に二層の金消粉の層を挟んで黄色漆を4回塗り込み、研ぎ付けて仕上げてあるのです。さらに周辺部には岩崎邸での室内装飾のために作ったと言われている、金塊を潰した極端に粗い金平目粉を散らしています。
その他にも、卒業制作の「草花鳥獣文小手箱」や椀類には、パッと確認できるデザイン効果のために、かくされた技法が山ほど詰まっています。これが蒔絵の世界なのです。
今回はかなり専門的な技法の話で、漆芸に携わらない方々には意味不明な内容になってしまいました。それでもルーペ片手に美術館に出かけると、その質感がよくわかると思います。そのような専門家の目で見る「松田権六の世界」展は、また違った魅力があるので、見落してしまった方は、もう一度熱海までお出かけ下さい。