「秋といえば」のあとにずっと記事を書けずにいるうちに、季節は巡ってもう春になってしまいました。
久々に筆をとります。
昨年暮れより今年の初めにかけて「松田権六の世界展」「現代の工芸三人展」「春二の会展」「日本文化財漆協会会員展」と、立て続けに私の漆芸制作活動に関わる展覧会がありました。そして昨日は「伝統工芸新作展」という、毎年四月に行われる、東日本地域に存在する作家による日本工芸会主催の公募展の搬入日でした。したがって昨年12月から5つの展覧会が重なった希に見る三ヶ月でした。
その都度、情報を発信できれば良かったのですが、気持ちが展覧会に入り込んでしまい、筆をとる余裕がなくなってしまいました。それぞれの展覧会は私の個展とは違うので、展覧会の名称からだけでは関わりが伝わらないかも知れませんので、事後報告ながら、3つの展覧会について簡単に内容に触れておきます。
松田権六については、日本の漆芸に興味のある方以外でも名前を知る人も多いと思います。近現代を代表する蒔絵作家である松田先生が他界されて20年経った今、改めて氏の足跡を辿った展覧会が「松田権六の世界展」でした(於:東京国立近代美術館工芸館)。その内容については、新春第1回目のNHK「新日曜美術館」でも紹介されましたが、先生は一作家という活動にとどまらず、古美術研究、保存修復、後継者指導、さらに海外に向けて日本の漆芸を発信するという活動に至るまで、私の漆芸活動の価値観に深く影響を与えました。その展覧会の一室で、松田権六の美の継承者の一人として私の作品を取り上げていただいたことに感謝すると共に、自らの創作活動の重要性を認識した展覧会ともなりました。この展覧会は3月10日から静岡のMOA美術館に巡回するので、次の機会に詳しくお話ししようと思います。
もうひとつは京都の山崎町にあるアサヒビール大山崎山荘美術館に於ける「現代工芸三人展」です。この大山崎山荘美術館は、関西の実業家であった加賀正太郎氏が大正元年から昭和7年にかけてのおよそ20年間をかけ、自ら設計し建てた山荘です。長い間使用されていなかった建物をアサヒビールが引き取り改築、美術館として開館したとのことですが、近年の建物にはない、重厚な素材感を感じられます。美術館は安藤忠雄氏設計の新館を加えてリニューアルをしてから今年度が十周年となり、それを記念した企画展が計画されたのでした。建物の中の材料や仕事を見て、このような空間に私の作品が飾られることが、私の作品をより生かせる気がして、改めて引き受けることとしました。展覧会は蒔絵の私と色絵磁器の高橋誠氏、彫金の河野三秋氏の三人で行われました。今でも温室として使われている「パルミラ」の部屋に蒔絵をしたハープ2台を置き、それを演奏して頂きましたが、その空間とすばらしい音色を思い起こすたびに感動が蘇ります。
もうひとつ「春二の会」とは、私の父・室瀬春二の漆芸家としての価値観に共鳴し、30年以上も前から我が家に出入りするアーティスト達によって結成された会です。ジャンルは絵画・彫刻・工芸・建築等の美術にとどまらず、作曲・歌・楽器等々音楽部門も含まれており、ユニークな活動になっています。父は平成元年に他界したのですが、その没後10年目に彫刻家の関正司氏が提唱した「室瀬春二を偲ぶ会」が催され、60人程の作家が集まりました。その集まりがその後「春二の会」と名付けられ、西武池袋本店のアートフォーラムという会場で隔年で展覧会を開催するところまで発展しました。そして美術と音楽のコラボレーションとしての先駆け的発表を繰り広げ続けています。次回は2010年に行われる予定ですので、また近づきましたら紹介させていただきます。
今年も正倉院展の季節がやってまいりました。58回目を迎える今年は例年より会期も延びて、来場する人も多くなった気がします。
今回の目玉は、やはり「国家珍宝帳」ではないでしょうか。この史料は、天平勝宝8年(756)の聖武太上天皇七七忌の法会に際し、光明皇太后が東大寺大仏に奉献した太上天皇遺愛の品々を記した巻子です。品目は六百数十点にも及び、御帯・牙笏・刀剣・楽器等、現在まで伝わる宝物の数々も記されています。
あらためて「国家珍宝帳」を見ると、鮮やかな白麻紙に端正な筆致で品目、員数、法量、形状、特徴、材質、付属品等が墨書され、全面に捺された天皇御璽の朱色とのコントラストが大変美しい。私にとっては、単なる情報(史料)という枠を超えた全く異なる世界がそこには広がっていました。
今年の漆工品の展示は、注目を集めるような宝物は出陳されていませんでしたが、私にはとても興味深い内容でした。展示室は大きく3室に分かれ、そのうち漆工品は第1室に「古櫃(こき)」「御袈裟箱(おんけさのはこ)」、第2室に「鐙(あぶみ)」「漆葛胡禄(うるしかずらのころく)」「漆鉢(うるしばち)」、第3室に「漆鼓(うるしのつづみ)」が展示されていました。
いずれもほとんど文様の入らない、いわゆる黒漆塗りで仕上げてあります。漆鼓は彩色があったようですが、大半が剥落していました。これらの漆肌を比べると、一見どれも同じ黒漆塗りのようでいながら、当時の漆塗技法が変化に富み、目的により使い分けをしていたことが手に取るように解ります(ちょっとマニアックですね)。そしてそれらの漆工品には修理の手が入っているため、どの部分が当初の塗膜かを見分け、その漆造りがいかに美しかったかに思いを巡らせることが面白いのです。漆は「漆造り」と「漆塗り技法」によって、その技の高さが千年を超えても持続するのだと改めて知らせてくれます。
今年の漆工品展示は一見すると地味ですが、漆の専門家としては大変な情報を与えられていることに気づきます。これらの「黒漆」をじっくり見て頂ければ、漆の本質が理解できるはずなのですが、どんなことなのかはまたの機会にお話ししたいと思います。
先日、仕事で東北に行きました。山はすでに紅葉の盛りで、カエデ・ナナカマド・ハゼ等が真っ赤に染まっていました。
東北は縄文文化の中心地だったのではないかと思うほど、土器や漆器が数多く出土している地域です。中でも青森市には、三内丸山遺跡という今から六千年前の縄文前期にあたる遺跡があります。その遺跡に隣接したところに、今年の夏、青森県立美術館がオープンしました。現在美術館では「縄文と現代」と称した展覧会が開催されており、縄文土器が200点以上陳列されています。縄文時代を象徴する火焔土器をはじめ、東北各地・山梨・関東等から出土した大小の土器が並ぶと、その造形感覚に圧倒されます。
その中に土器に漆が塗られた、いわゆる陶胎漆器が数点並んでいました。キャプションがなかったので、どの地域から出土したのかは不明ですが、おそらく縄文中期から晩期にかけてのものと思われます。三千年程前、焼いた土器に漆を塗ることによって水漏れを防いで貯蔵する技術と、黒や赤の漆を巧みに操って土器を装飾する美感を兼ね備えていた縄文人の優れた技量を今に伝えていました。
このような出土例を見ていると、当時から漆の木を育て採取し、さらに液を精製して塗料として使用する技術をつかさどる専門家が存在していたのではないかと想像を巡らせてしまいます。縄文時代に分業制度や専門の職業が存在していたとすれば、縄文社会はかなり高度な文化レベルであったと言えるでしょう。
すると偶然その日の「東奥日報」に、八戸市の是川遺跡から出土した漆塗櫛のX線透過写真が八戸市教育委員会から公開されたとの新聞記事が掲載されていました。記事の写真には、縦櫛といわれる形式の鮮やかな赤色漆の内部が「結歯式」と呼ばれる精巧な構造になっていることが映し出されていました。結歯式とは木を加工して作った細長い歯を一本ずつきれいに並べ揃えて、元の部分に横木を渡し、紐で縛って固定する製作法です。さらに固定した部分に漆を塗って固着させ、下地をつけて整えた上に漆を中塗りし、さらに赤色漆を上塗りしているのです。
新聞記事には「縄文人の技術の高さを見てほしい」という関係者のコメントが付されていましたが、漆の特質を十二分に生かした先人の知恵に脱帽です。漆を使わない代用下地で作られた、すぐに壊れてしまうような誤った“漆器”が出回る現代を顧みると甚だ恥ずかしい。
漆はこのように何千年も腐ることなく生き続ける、世界でも類のない天然塗料です。目先の金額だけで高い安いと単純に決めたり、化学塗料は万能であると過信している現代人に再考を促す話ではないでしょうか。
曽候乙墓とは、紀元前5世紀、中国・戦国時代の曽国の領主・乙(いつ)の墓という意味です。当時、統一される前の中国では、このような地方豪族が国を治めていました。1986年、この地域に軍の建物を造るために掘った地面の下から偶然に発見され、当時大きなニュースになりました。館長のお話では、その墓が発見されたのは10mほど掘った所とのこと。小高い丘に建物を造るために平らな面積を確保せねばならず、山を削ったことにより発見されたのでしょう。

その出土した当時を想像しながら、しばらく立ち止まって上から墓室をのぞき込みました。墓は深さ3.5m程で、部屋が4室に分かれ、床、天井、壁は長さ6〜8mの木材を50cm×60cm程のサイズに削り整えた角材で囲んでありました。今は天井の材だけ取り除いてありますが、床と壁は発掘当時のまま保存してあります。

驚くことに、その壁の周囲は床から天井部分まで幅1mにわたり、木炭を下から上までぎっしり積み上げた壁でできていたことでした。

発見当時は槨(棺を納める部屋)の中は水が充満していたそうです。しかし50cmの厚みの木材の壁をすっぽりと囲むように、1mの木炭の層が包み込まれているため、染込んだ水は自然と濾過され、中の埋葬品は腐ることなく二千五百年の間保存されたのです。ところが水が湧いて出てくるのはこの場所だけで、少し離れた所ではどれだけ掘っても水は出てこない。もしかすると当時の人たちは、水で覆われた方が埋葬した墓を守れると考え、墓を掘り、木材で室をつくり、木炭層でさらに包み込んだのかも知れません。
埋葬品の数は15,000点余りで、そのうち漆工品は4,780点程。その大半は漆塗りのボタンで、一般の漆工品は273点とのことでした。出土した時はそれらの漆器はすべて色鮮やかだったそうで、改めて漆器の保存力を知らされた思いがします。

今は埋葬品もすべて移動され、水も抜かれた状態でしたが、温度は35℃を超え、湿度は100%近い状態。そこにいるだけで汗が噴き出して止まらないほど特殊な空間になっていました。特別に鉄柵の中にハシゴで下ろして頂き、積み上げられた木材の壁の上に立って墓の中を見回した時、2500年という時の流れが一瞬にして逆戻りして、当時の人々の美のメッセージを聞いた気がしました。
そもそも今回、中国へ調査旅行に出かけることになったのは、NHKによる松田権六先生(1896-1986)の番組制作がきっかけでした。松田先生は、近現代の日本工芸に興味のある方なら名前を知らない人はいないというほど著名な漆芸作家で、日本近代漆芸の生みの親と言っても過言ではないでしょう。
松田先生は創作はもちろん、同時に文化財保存や古典研究の分野においても重要な活動をされました。特に昭和9(1934)年から数年にわたって行った、楽浪郡(朝鮮)から出土した漢時代の漆工品の保存修復は、先生自身が抱いていた“漆”の奥深さを再認識するものになりました。二千年を超えても朽ちることない漆の強固さと、古代中国の美的感度、技術力の高さを身を以て知ったのです。
このことから先生は中国へ行って、現地で二千年以上前の漆工品を見たいと考えるようになりました。昭和40(1965)年にようやくその希望がかないましたが、戦後20年しか経っていない中国での調査はなかなか難しかったようです。それでも戦前に世話をした中国からの留学生・沈福文氏の取り計らいで、発掘現場こそ無理だったものの、紀元前3世紀頃・戦国時代の出土漆器が保存されている場所を見ることができたそうで、興奮気味にそのことを話されていたことを思い出します。
その話は、当時の漆工品がすでに金銀の細かい粉を蒔いた技術から各種色漆、螺鈿、平脱さらに木彫彩漆(いわゆる鎌倉彫の源流)まであり、中国ではこの時代に多様な漆芸装飾技法が完成していたことを物語っているというものでした。そして近い将来もっと古い時代の資料が見つかり、今自分が見た漆工品のさらに源流となる資料が見つかる日が来ることを待ち望んでいるとも言われました。
それから20年以上経って発見されたのが、紀元前5世紀といわれる曽候乙墓出土の漆工品資料だったのです。松田先生はこれらの発掘を当時から予言していたわけなのです。
今回の中国調査は松田先生が切望しながら叶わなかったこと—先生が見た資料より200年ほど遡る漆工技術の原点を、私が代わって訪ねようという試みだったのです。(つづく)
*放送は今月9月29日金曜日、NHK・BSハイビジョンで21:00〜22:50です。お楽しみに。
7月初旬に中国に行きました。現代に伝わる漆工技法の原点を訪ねる旅でした。
NHKのスタッフと共に成田から北京経由で武漢へ。
武漢という町は揚子江の中流域に位置し、中国の中でも南京・重慶と共に三大釜場といわれる程、夏の暑さの厳しい地域だそうです。
早朝5:00に起床して空港に向かいましたが、空港近くの道路は朝6:00台でも身動きがとれないくらい混雑していました。1時間程かかってようやく搭乗手続きを済ませ、何とか飛行機に乗ることができましたが、現地の案内スタッフがいなかったら、どうなっていたことやら。
北京から武漢へはおよそ1000km、約3時間のフライトでした。飛行機を降りると、覚悟はしていたものの、足下から熱い蒸気が上がってくるような酷暑で応えました。さすが、三大釜場のひとつです。
曽候乙墓はこの町からさらに100km以上離れた所にあります。北京周辺とは異なり道路がまだ整備されていないため、移動に4時間近くかかります。途中に高速道路もありましたが、大半は一般道路を走り続けました。
車窓からの景色は緑豊かな田園が続き、水牛を押しながら耕す長閑な風景が目に入ってきます。

墓陵が発掘された当時の写真を見ると、土と岩の中に位置していたため、思い浮かべていた殺伐とした土地のイメージとは随分かけ離れた光景でしたが、よく考えてみれば漆が使用されている地域なのですから、高温多湿な緑地帯であることは当然でした。発掘現場の写真は地下深く掘り込んだ位置なので、土と岩しか見えなかっただけのことでした。
3時間以上走り、曽候乙墓のある随州市に到着。川のほとりに広がる町で道を尋ねると、思いのほか町中にあることがわかりました。やっとのことで看板を見つけて細い道を入り、小高い丘を上って行くと、軍の学校が建っていました。どうやら目的地はその敷地内にあるらしく、学校の門を通り抜けると、突き当たりに「曽候乙墓」の石碑、右手に博物館と称する建物。ようやく到着です。

はたして、ここまで訪れる外国人観光客は何人いるのでしょう。出発した時にバッグに入れた冷たい水も、すっかりぬるま湯になっていました。
墓は建物ですっぽり覆われており、それが博物館となっていました。周囲は鬱蒼とした森で、眼下には当時と変わらないであろう豊かな田園風景が広がっています。

スタッフが取材交渉をしている間、これから2500年前の空間に足を踏み入れることへの気持ちの高まりが、暑さを忘れさせていました。
毎年夏は日本伝統工芸展の出品制作のため、他の事はほとんど手につかない状態です。従ってブログもしばらくお休みとなってしまいました。
先回もお話ししました日本伝統工芸展は今年で53回を数え、9月26日(火)から10月8日(日)までの2週間、日本橋三越で開催されます。その後は、半年かけて全国を巡回します。展覧会は陶芸・染織・漆芸・金工・木竹工・人形・諸工芸の7部門に分かれ、多くの人間国宝の作品も出品されます。今年の展覧会では、私は監査委員を勤めました。漆芸部門は作品レベルも高く、毎年激しい選考が行われます。選考結果は会場でご覧頂ければと思います。
また今年は同時期に、金沢市の石川県立美術館において、近代漆芸の祖といわれる松田権六の展覧会「人間国宝 松田権六展」が開催されます(9月29日〜10月29日。東京、静岡にも巡回)。展覧会の初日にあたる9月29日(金)には、NHKのBSハイビジョンで松田権六の漆の世界を紹介する番組が放映されます。詳細は今後順次お伝えしますが、私の作品制作を通して漆芸技法を紹介する番組構成になっています。これは今年の日本伝統工芸展出品作を工程を追って取材したものです。また取材の一環として、以前にブログで書いた中国の戦国時代の曽候乙墓から出土した漆の資料調査もすることができました。
次回はその中国取材をお伝えします。
この梅雨の鬱陶しい時期、日本伝統工芸展に向けた出品活動をしている人は、気候のせいばかりではなく、そのために気分が重くなります。
日本伝統工芸展は昭和29年に発足し、文化庁が唯一主催する、今年で53回を数える国の公募展です。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、諸工芸の7部門に分かれ、毎年公募されていますが、その締め切りが7月末から8月初と、もう眼前に迫っているのです。
日本伝統工芸展の特色としては、発足当初から無鑑査制度をつくらず、審査員になる人も、そしてたとえ人間国宝といえども、全員が審査を受けるシステムを変わらずにとっていることにあります。つまり1年に1回、工芸作家としてその年の集大成ともいうべき作品を創り、審査を受ける — 学生でいうならば、さしずめ1年の年度末試験を受けるようなものです。
したがって日本伝統工芸展に出品する作家は、作品を創り続ける限り、最後までこの試験を受けなければなりません。
さて、冒頭で気が重いと吐露しましたが、実は漆芸作家にとっては喜ばしい時期でもあります。梅雨時期は湿度が高く、漆がよく乾固するので、冬期ならば2日に1工程しか進まないところが、特に雨降りの日などは1日2工程も進むほどなのです。こんなことからこの時期は制作の遅れを取り戻せる、最高の季節です。ただうっかりすると乾きが早すぎてムラが出たり、漆の表面が縮んでしまったりと、マイナス面もあります。そんな漆の性質をきちんと理解して、漆に歩調を合わせながら制作するのが私たちの仕事です。
これから1ヶ月の間は、きっとどの分野の作家も寝る間を惜しんで取り組んでいるに違いありません。私も制作に没頭する日々が続いています。(そのためブログも滞りがちで、ごめんなさい。)
ちなみに日本伝統工芸展の要項は日本工芸会のホームページでも見ることができます。どなたでも出品することは可能です。
昨年の成川美術館の個展に出品した作品のひとつとして、シガーボックスを作りました。銀座でワインバーを営んでいる友人に勧められて挑戦してみました。
いざ作るとなると、シガーのことを勉強しなくてはならず、内部の構造も含めると調べることも多く、専門分野の奥深さに驚くことばかりでした。
しかし、調べを進めているうちに、シガーの保存には適度の湿度を保つ必要があることから、日本の漆はその箱として最も適しているのではないかと考えはじめ、もう少しシガーのことを深く勉強する必要があると感じました。
そこで紹介されたのが、シガーをこよなく愛し、研究している平野さんという方でした。シガーの保存に適した材料・保湿方法を教えてもらう等、彼との出会いはこの制作には欠くことができませんでした。
そういった経緯で仕上がったのがシガーボックス「彩響」です。

近世のヨーロッパ人、いわゆる「南蛮人」が日本へ来たのは桃山時代。彼らのもたらしたニューモードを取り入れた新奇なファッションが花開きました。そのひとつが縞文。その整然としたイメージを、作品では黒漆塗面に貝を嵌めたり、金粉の種類や蒔き方を変えたりすることでニュアンスある線にしました。まるで彩が響き合うように。それはまたシガーという異国の文化との共鳴でもあるのです。また木地は檜材、内部はセドロという材を貼り、懸子にシガーが並ぶ構造になっています。
今年になってから平野さんから連絡があり、この漆塗りの蒔絵シガーボックスを世界のシガー愛好家に紹介したいので、インターネットのホームページを作りたいと申し出がありました。
私はシガー愛好家の方々とはお付き合いがないので、そのことは平野さんにお任せした結果、今回のホームページ開設の運びとなりました。興味のある方はアクセスしてみて下さい。
漆の関係団体はいくつかありますが、その中に「日本文化財漆協会」という団体があります。この協会は日本産漆の生産を目的に昭和47年に設立され、現在に至るまで積極的な活動を繰り広げています。
その中でも漆の木の植林は最も重要な事業です。しかし国有林を利用し昭和53年よりスタートした岩手県浄法寺町での植林計画は、すべてが順調に進んだ訳ではありません。漆の木というと「山の木」というイメージがありますが、山の中に生えている漆はヤマウルシやツタウルシといって、採取するほどの樹液は出ず、せいぜい人をかぶれさせる程度です。植林を試みた杉などが既に成育している山のやせた土壌では、生産性のある漆の木の生育が難しかったのです。このことから漆の木は果樹と一緒で、人が手を入れないと育たない「里の木」であるということを思い知らされました。
現在浄法寺町周辺の山には、町の漆生産組合の植栽も含めると50ha、14万本を超える漆の木が生い茂っています。そして十数年ほど前からは漆掻きも開始され、今では年間50kgほど採取できるまでになりました。この漆は会員に実費で配布されています。店頭で販売されているものとは異なり、採取時期をきちんと分けているというのが特色です。
協会ではその他にも様々な活動をしています。採取・精製・漆掻き道具の保存、それらに関わる人材の育成などはもちろん、年3回の冊子の発行、隔年での会員による作品展、年1回の総会では漆文化の講義、特別講演会なども開催しています(ちなみに今年はドイツ・ラッククンスト館長のモニカ・コプリン氏による「ドイツのラッカーにみるジャポニズムとシノワズリー」と題する講演会でした)。

稀少になってしまった日本産漆液を将来に橋渡す「日本文化財漆協会」の今後に、是非ご注目下さい。そして、日本産漆を愛する方なら誰でも入会できますので、興味をもたれた方はご入会されませんか?協会事務局の電話番号は03-5685-5111です。いつでもお問い合わせ下さい。